【考察】なぜハーメルンだけが伝説に残ったのか?「歴史の特異点」が生んだ130人の集団脱出

今回は東方開拓民説をもとに、私なりに考察してみました。

東方開拓民説をざっくりおさらいすると、

「ハーメルンから消えた子供達とは、東ヨーロッパへの移民を募集するドイツ植民運動に参加した若者達だった。」という内容です。

伝説の内容について、これから知りたい方は、ぜひこちらの記事をお読みください!

時系列

私の考えるハーメルンの笛吹き男伝説の仮説を、時系列に沿って書いてみました。

1260年

ゼーデミューンデの戦いで、父親世代(当時の成人男性)が多く亡くなる。

独立戦争に勝利した司教は、重税を課した。

減税などの温情をかけられなかったので、働いても豊かになれない。

(長男ですら、家を継ぐメリットがない(継いだら借金地獄)異常事態だった。)

1284年(敗戦から24年後)

若者たちは、生まれた時からずっと、親の借金を返させられてきた世代。

若者たちの不満が爆発寸前のところに、笛吹き男(移民勧誘者)が都市を離れる提案をし、通常の勧誘ではあり得ない人数が参加した。

(人口2,000人の町で、労働の主力となる若者層が一気に130人も引き抜かれるというのは、異常。)

ハーメルンには老人と女性、幼すぎる子供しか残らず、都市が機能不全に陥る。

植民が成功しようが失敗しようが、当時は連絡手段ゼロなので、親元に情報が届かなかった。

(当時の植民開拓の成功率は高かったことから、子供たちは無事に東ヨーロッパに辿り着き、正当な権利を得たと考えます。)

1300年頃

残された大人たちが、ハーメルンの歴史に記す。

2000年頃

東ヨーロッパにはハーメルン由来と考えられる地名や姓を持つ人々が存在する。

下記のような、ハーメルンの近隣にある村と全く同じ名前の村が、東ヨーロッパで発見された。

  • Hindenburg(ヒンデンブルク)
  • Spiegelberg(シュピーゲルベルク)
  • Bevern(ベーフェルン)

北東ドイツのブランデンブルク辺境伯領周辺であるという説が有力。

他にも移住先として、南バルト海沿岸や、ベルリン北部途上にあるプリクニッツとウッカーマルク、現在のポーランドの一部であるかつてのポメルン地方も挙げられる。

結論:ハーメルンは「歴史の特異点」だった

なぜ数ある集団失踪の中でハーメルンだけが伝説となったのか?

私は以下の2点からであると考えました。

①土壌

当時のドイツで独立戦争に負けた都市のうち、半壊的な死の被害を受けた事例は10~15%(およそ50〜100箇所)。

温情を与えられず、賠償金や重税を課された都市は、約10%(およそ5~10箇所)。

→このように、100年間で約5~10件と、発生件数が少ない

②失踪人数の異常さ

130人が失踪という、植民地開拓では他にない大量失踪が起こった

特に、本来なら町に残るはずの「長男(跡取り息子)」までもが家を捨て、子供が全滅に近い状態までいなくなる異常事態。

まとめ

いかがでしたでしょうか?

今回はハーメルンの笛吹男伝説について、「1260年の戦い」と「1284年の失踪」を連続性のある出来事だと考えた上で、仮説を立てました。

なぜ数ある集団失踪の中でハーメルンだけが伝説となったのかを、都市の半壊と重税による「低確率な不幸」と、若者の経済的合理性による「歴史上でも圧倒的多人数の失踪」として説明しています。

伝説では笛吹き男の存在が目立っていますが、実際は彼の才幹が起こした事件というよりは、「ハーメルンが限界だった」という土壌があったからこそ、130人という大人数の移動が実現したのでしょう。

もしハーメルンが「ゼーデミューンデの戦い」に勝っていれば、20年後の若者たちが街を捨てることもなかったかもしれません。

しかし、子供たちは奴隷として売られたり搾取されたりせず、ちゃんと移住できて、新しい村に「懐かしい故郷の名前」をつけて、故郷を忘れなかった。そう考えると、ハーメルンの笛吹男伝説は、美談で終わっていたのかもしれません。

もしそうであれば、移住した子供たちにとって、幸せな転機だったことを願いたいです。

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