はじめに
『パラノマサイト FILE23 本所七不思議』をきっかけに、本所七不思議の存在を知った人も多いのではないでしょうか。
しかし、そもそも「七不思議」とは何なのでしょうか。また、なぜ「七」という数字が使われ、江戸時代に語られていた怪談が現代まで受け継がれてきたのでしょうか。
本記事では、七不思議文化の歴史をたどりながら、本所七不思議が現在まで語り継がれてきた理由について触れていきます。
そもそも「七不思議」とは?
七不思議とは「七つの怪談」ではない
「七不思議」と聞くと、七つの怖い話をまとめたものを想像するかもしれません。しかし、本来の七不思議とは、不思議な出来事や場所、伝承などを集めた総称です。
また、必ずしも七つぴったりである必要はなく、時代によって内容が入れ替わることも珍しくありません。地域ごとに異なる七不思議が存在するのも、その特徴の一つです。
コラム|「七」はブランド名のようなもの
七不思議の「七」は、厳密な数を表すというよりも、人々の興味を引き、覚えやすくするための看板のような役割を果たしていました。
現代でいう「日本三景」や「日本百名山」のように、「七不思議」という名前そのものが一つのブランドとなり、各地の不思議な話が語り継がれていったのです。
七不思議の起源は怪談ではなかった
「七不思議」という言葉は古くから存在していた
「七不思議」という考え方は江戸時代より前の中世から見られ、当初は神仏の霊験や自然現象などを七つ数え上げる形でした。諏訪の七不思議はその古い例の一つで、のちに江戸では怪異譚・怪談としての七不思議が広く展開しました 。
つまり、七不思議は江戸時代に広く流行した怪談集というよりは、中世から受け継がれてきた伝承文化の一つだったのです。
初期の七不思議は神秘や奇跡を集めたものだった
現在の七不思議には怪談のイメージがありますが、古い七不思議の多くは「恐怖」を語るものではありませんでした。
そこにあったのは、人間の力では説明できない自然現象や、神様の加護を感じさせる神秘でした。
例えば、諏訪七不思議の一つとして知られる「御神渡(おみわたり)」は、厳冬期に凍った湖面が盛り上がり、まるで神が湖を渡った跡のように見える現象です。人々はこれを自然現象としてだけでなく、神の通り道として畏敬の念をもって見つめていました。
また、「根入杉」は、昼と夜で木の根の見え方が変わるという不思議な伝承であり、「元朝の蛙狩」は正月に蛙を捕らえて神前に供える神事にまつわるものです。
現代の感覚から見ると奇妙に思える話もありますが、当時の人々にとっては自然や神々と共に生きる世界観の一部でした。
つまり、初期の七不思議とは「怖い話」ではなく、人知を超えたものへの驚きや畏敬の念をまとめたものだったのです。
その後、時代が下るにつれて怪談や都市伝説の要素が加わり、江戸時代になると現在の本所七不思議のような「怪異譚」として親しまれるようになっていきました。
江戸時代になると「○○七不思議」という呼び方が各地に広がった
七不思議は江戸時代の人々に楽しまれた地域伝承・怪異譚だった
江戸時代になると、「七不思議」は神秘や奇跡を語るものから、地域ごとの怪異や不思議な話を集めたものとして広がっていきます。
当時の人々にとって七不思議は、単なる怖い話ではありませんでした。
「ここには不思議な坂があるらしい」
「夜になると妙な音が聞こえるそうだ」
「昔から奇妙な言い伝えが残っている」
そんな土地の名所や習俗に結びついた話に基づいた噂話が口コミによって広まり、人々はその話を聞いて楽しんでいました。
江戸時代には寺社参詣や名所巡りが盛んになり、各地の名所を訪ね歩く文化が発達します。見世物や講談、瓦版などによって珍しい話などの娯楽文化の中で、七不思議も広がっていきました。
「次はどこの七不思議を見に行こうか」
そんな会話が、江戸の町では交わされていても不思議ではありません。
本所以外の七不思議
『パラノマサイト』の影響で本所七不思議が再注目されていますが、江戸時代には本所以外にも数多くの七不思議が存在していました。
むしろ、「○○七不思議」を作ること自体が一種の流行だったともいえます。
麻布七不思議
現在の港区周辺に伝わる「麻布七不思議」には、柳の井戸や一本松などが含まれます。また送り拍子木の伝承は広尾にもあったようです。
興味深いのは、こうした話の多くが「本当に怪異が起きた」というよりも、「あそこには何かありそうだ」という人々の想像力によって育まれていったことです。
実際の地形や古木、寺社などが、怪談の舞台になっていきました。
出典:Wikipedia
千住七不思議
現在の足立区周辺に伝わる七不思議です。
「大亀」「大緋鯉」などの伝承が残されています。生き物関連の話が多いのが特徴なのと、本所七不思議と同じ「おいてけ堀」「片葉の葦」が含まれていることも印象的ですね。
興味深いのは、地域ごとの七不思議が完全に独立していたわけではなく、怪談や伝承が互いに影響し合いながら語り継がれていたと考えられることです。
越後七不思議
新潟県周辺に伝わる越後七不思議は、鳥屋野の逆竹など、自然現象や奇妙な植物に関するものが多く含まれています。こちらに伝わる七不思議にも、麻布七不思議と同様、親鸞ゆかりの話が登場します。
ここでは本所七不思議のような怪談というよりも、中世の「神秘を語る七不思議」の面影を感じられます。
つまり、全国の七不思議を見ていくと、
- 神秘や奇跡を語るもの
- 幽霊や怪異を語るもの
- 動物や植物にまつわるもの
など、その内容は実にさまざまでした。
本所七不思議は数ある七不思議の一つだった
先ほど紹介した七不思議の他にも、七不思議は各地にあり、江戸時代の人々から見れば、本所七不思議は、全国に存在した数多くの七不思議の一つに過ぎませんでした。
だからこそ興味深いのは、
「なぜ数多くあった七不思議の中で、本所七不思議は現代まで名前や資料が残ったのか」
という点です。
本所七不思議の本当の特殊性は、江戸時代に存在していたことではなく、数百年を経た現在でも多くの人に語り継がれていることにあるのかもしれません。
なぜ「七」だったのか?
古くから「七」を特別な数字としてきた
七不思議が「七」である理由の一つは、日本人が古くから「七」を特別な数字として親しんできたことにあります。
七福神、七草、七曜など、「七」は縁起の良い数字として広く使われてきました。
こうした文化的な背景もあり、人々にとって「七」は親しみやすく、覚えやすい数字だったのでしょう。
七つにすると覚えやすく、語り継ぎやすい
また、七つにまとめることで、
- 集めたくなる
- 人に話しやすい
- 覚えやすい
という効果も生まれます。
現代の「○○四天王」や「日本百名山」と同じように、「七不思議」は人々の記憶に残りやすい枠組みでもあったのです。
本所七不思議はなぜ現代まで残ったのか
個々の怪談だけを見ると地味な話も多い
本所七不思議には、馬鹿囃子や消えずの行灯、落葉なしの椎など、一つだけなら小さな都市伝説に過ぎなかったような話も含まれています。
実際、江戸時代には本所以外にも数多くの「○○七不思議」が存在しましたが、その多くは現在ではあまり知られていません。
「七不思議」という枠組みが怪談を語り継ぎやすくした
一方で、七つの怪談が集まることで、一つの世界観や地域の物語が生まれます。
個々の話だけを見れば埋もれてしまった可能性がありますが、「本所七不思議」という名前でまとめられたことで、人々に語り継がれやすくなった可能性があります。
まとめ
本所七不思議は、江戸時代に突然生まれた怪談集ではなく、中世から続く「七不思議文化」の流れの中で生まれた伝承の一つです。
江戸時代には本所以外にも数多くの「○○七不思議」が存在しましたが、「七」という覚えやすい枠組みによって、人々に語り継がれてきました。
個々の怪談だけを見れば小さな都市伝説だったかもしれない伝承が。しかし、「本所七不思議」という形でまとめられたことで、現在まで名前や資料が残り、『パラノマサイト FILE23 本所七不思議』によって再び注目を集めています。
本所七不思議は、800年以上続く「七不思議文化」の中でも、現在まで知られる代表例なのかもしれません。


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