はじめに|斎宮の地に祀られる「長白羽神」という珍しい神

三重県明和町にある斎宮(さいくう)の地に鎮座する竹神社を訪れると、そこには少し珍しい神様が祀られていることに気づきます。
その神が長白羽神(ながしらはのかみ)です。
長白羽神は、麻や織物に関わる神として知られています。
特に、伊勢神宮で天照大御神へ奉納する御衣(みそ)の製作や、古代祭祀を支えた麻続氏(おみのうじ)の祖神として伝えられてきました。
では、なぜ天照大御神に仕える斎宮という場所に、衣を作る神が祀られているのでしょうか。
そこには、伊勢神宮の祭祀を支えてきた古代の技術者集団や、斎宮という土地が持つ長い歴史が関係しています。
この記事では、竹神社に祀られる長白羽神を中心に、古代祭祀・麻続氏・忌部氏、そして斎宮とのつながりについて考えていきます。
竹神社とは?|斎宮に残る古代からの神社

竹神社は、三重県多気郡明和町の斎宮地区に鎮座する神社です。
御祭神として、主祭神に長白羽神を祀るほか、竹川・金剛坂・麻生・上村・岩内・池村など、周辺地域で信仰されてきた神々が合わせ祀られています。
境内の歴史や御祭神、合祀された神社については、別記事で詳しく紹介しています。

長白羽神とは?|天岩戸神話と麻織物の神

竹神社の主祭神である長白羽神は、麻や織物に関わる神として知られています。
しかし日本神話の中心的な神々と比べると、長白羽神の名前は『古事記』や『日本書紀』にはほとんど登場しません。
しかし、古代の祭祀を伝える『古語拾遺』などの忌部氏系の伝承では、天照大御神をお祀りするための祭具や神衣を準備した神として記されています。
つまり長白羽神は、神を祀るための技術や奉仕を担った人々の祖神として重要視された神といえます。
では、なぜ織物の神が伊勢神宮と深い関わりを持つのでしょうか。
その背景には、天岩戸神話があります。
天岩戸神話に登場する長白羽神
長白羽神は、天岩戸隠れにおいて祭祀を支えた神の一柱として伝えられています。
『古語拾遺』などの忌部氏系の伝承によれば、天照大御神が天岩戸に隠れた際、天太玉命(アメノフトダマノミコト)が祭祀を主導し、長白羽神は麻を植えて青和幣(あおにぎて)を織ったとされています。
青和幣とは、神への奉納に用いられる布帛(ぬの)であり、古代祭祀において重要な役割を持つものでした。
この伝承から、長白羽神は単なる織物の神ではなく、神を祀るための衣や祭具を整える技術を象徴する神として位置づけられていたことが分かります。
長白羽神と伊勢神宮の神衣祭
長白羽神の重要性は、天岩戸神話だけではありません。
伊勢神宮では現在でも、天照大御神へ御衣(みそ)を奉る神宮神衣祭(じんぐうかんみそさい)が行われています。
古代には、天照大御神へ捧げる神衣を作ることは、単なる衣服製作ではなく、神への奉仕そのものでした。
そのため、麻を育て、繊維を取り出し、布として仕上げる技術を持つ人々は、伊勢神宮の祭祀を支える重要な存在だったと考えられます。
長白羽神は、そうした麻や織物に関わる人々の祖神として信仰されてきました。
長白羽神と麻続氏|伊勢神宮の神衣を支えた氏族
長白羽神は、麻を扱う氏族である麻続氏(おみのうじ)の祖神とされています。
麻続氏は、麻を栽培し、そこから作った麻布を神への奉納品として整える技術を担った氏族です。特に、伊勢神宮で天照大御神へ御衣を奉る神宮神衣祭において、麻織物である荒妙(あらたえ)を調進した氏族として知られています。
ここで重要なのは、麻続氏と忌部氏は深い関係を持ちながらも、同じ氏族ではなく、それぞれ異なる役割を担っていたという点です。
| 忌部氏 | 麻続氏 | |
| 祖神 | 天太玉命 | 長白羽神 |
| 役割 | 朝廷祭祀全般 | 麻・織物 |
| 担当 | 神宝・祭具・儀式 | 神衣製作 |
忌部氏が祭祀全体を取り仕切る役割を担ったのに対し、麻続氏はその中でも神に捧げる衣を作る専門的な技術者集団だったと考えられます。
つまり、長白羽神は天照大御神への奉仕を支える「衣」の技術を象徴する神であり、竹神社に祀られていることは、斎宮という天照大御神奉仕の場と深く結びついているといえるでしょう。
なぜ斎宮に長白羽神が祀られたのか?

竹神社に長白羽神が祀られている理由は、斎宮という場所の性格と関係していると考えられます。
斎宮は、天皇に代わって天照大御神に仕えるための場所でした。そのため、神衣をはじめ、祭祀を支える技術や奉仕に関わる神が祀られたことは、斎宮の役割とも合致します。
また、社伝では、初代斎王・大伯皇女の時代に麻績氏が斎宮に関わり、その祖神である長白羽神が祀られたと伝えられています。
史料で確認できる範囲と社伝には区別が必要ですが、竹神社の長白羽神は、斎宮を「神に仕える人々や技術が集まる場所」として見る上で、重要な存在といえます。
「忌部」から「斎部」へ変化した理由を考える
平安時代以降、忌部氏は「斎部」と表記されることが多くなります。
現代では「忌」という字に「避ける」「不吉」という印象がありますが、古代の祭祀においては、神聖なものに近づくために身を慎むことを意味していました。
実際、『皇太神宮儀式帳』(804年)でも「忌」という表現は使われており、当時の伊勢祭祀では必ずしも悪い意味ではありませんでした。
では、なぜ「斎部」という表記が広まったのでしょうか。
一つの可能性として、平安初期には斎宮・斎王など、「斎(いつき)」という言葉が皇室祭祀と強く結びついていたことが考えられます。
そのため、「斎部」という表記には、神に仕える祭祀氏族としての立場をより強調する意味が込められた可能性があります。
ただし、忌部から斎部への変更理由を直接示す史料はなく、あくまで当時の祭祀文化を踏まえた一つの考察です。
竹神社の名前の由来|なぜ「竹」なのか?
竹神社という名前を聞くと、竹林や植物の「竹」を思い浮かべる方も多いかもしれません。
しかし、竹神社の「竹」は、植物ではなく、古代氏族である竹連(たけのむらじ)・竹氏に由来すると伝えられています。
斎宮という土地は、後に伊勢神宮に仕える斎王の拠点となりますが、その歴史は斎宮制度が成立する以前にまでさかのぼります。
竹神社の社名には、この土地に暮らした古代の氏族の記憶が残されているのです。
竹氏と倭姫命の伝承
竹神社の由緒では、垂仁天皇の時代、竹連の祖である宇加之日子(うかのひこ)の子・吉日古(きびこ)が、天照大御神の鎮座地を求めて巡幸していた倭姫命に従い、この地に留まったと伝えられています。
その後、吉日古の子孫がこの土地で暮らし、祖先神として宇加之日子や吉日古を祀ったことが、竹神社の起源につながったとされています。
ただし、これは竹神社に伝わる由緒や伝承であり、すべてを歴史的事実として確認できるわけではありません。
一方で、斎宮周辺が古くから伊勢神宮と関わる重要な地域であったことを考えると、竹氏にまつわる伝承は、この土地の古代的な性格を伝えるものといえます。
『皇太神宮儀式帳』に見える「竹首吉比古」
竹氏との関係を考える上で注目されるのが、平安初期に成立した『皇太神宮儀式帳』(804年)です。
この史料には「竹首吉比古(たけのおびときびこ)」という人物名が記されています。
「竹首」という姓が、竹神社の由緒に登場する「竹氏」と関係する可能性が指摘されています。
ただし、この記述だけで現在の竹神社の創建や由来を直接証明することはできません。
しかし、8世紀から9世紀の伊勢祭祀を記録した史料の中に「竹」という名を持つ人物が登場することは、古代の伊勢周辺に竹氏の存在が認識されていたことを示す重要な手がかりです。
竹神社は、長白羽神を祀る神社であると同時に、斎宮の成立以前から続く古代氏族の記憶を伝える場所でもあるのです。
「竹の都」と呼ばれた斎宮
斎宮は、古典文学の中でもたびたび登場する場所です。
『大和物語』では、斎宮を「竹の都」と表現した箇所があり、ほかにも『源氏物語』『更級日記』『栄華物語』などに斎王や斎宮に関する描写が見られます。
なぜ斎宮が「竹の都」と呼ばれたのかについては、いくつかの説があります。
- 斎宮周辺に竹が多かったため
- 古代氏族である竹氏との関わりを反映したため
- 歌文学的な表現として「竹」が用いられたため
などが考えられますが、明確な理由は分かっていません。
ただ、「竹」という言葉が斎宮という特別な場所を表す象徴として用いられていたことは、この土地の歴史を考える上で興味深い点です。
まとめ
竹神社に祀られる長白羽神は、天照大御神への奉仕に欠かせない神衣や祭具を支えた「技術を担う神」として、伊勢の祭祀の裏側を伝える重要な存在です。
斎宮というと、斎王や伊勢神宮との関係に注目されがちですが、その背景には神に仕えるための技術を持った人々や、古くからこの土地で暮らしてきた氏族の存在がありました。
竹神社は、そんな斎宮のもう一つの歴史を感じられる場所です。斎宮を訪れる際には、ぜひ長白羽神や竹氏の伝承にも注目してみてください。


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